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現地レポート

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はじめに ~復興へ向けて~

  「復興」という言葉が繰り返し、繰り返し、叫ばれています。 私達NPOみんつなも、その目指すべき復興というものが一体どのようなものなのか、ずっと考えて来ました。町のインフラが元通りになることを復興と言うのでしょうか。それとも、経済基盤が復旧、もしくは以前よりも大きくなった場合でしょうか。それとも、ひとりひとりの心の傷が完全に癒えること、それが復興なのでしょうか。私達が活動で関わり、出逢った人々と接する中で強く思ったことがあります。それは、「被災地」という特定の地域は存在せず、「被災者」という個人も存在しないということです。土地それぞれ、人それぞれに大切な文化、人生があり、喜びや痛みがあります。私達の目指す復興とは、掴みどころのない「被災地」や「被災者」のものではなく、私達がこれまで出逢ってきた人、そのひとりひとりが、「明日も元気に行きて行こう」と思えることだと感じるようになってきました。失われたものは帰って来ず、傷ついた心は他の何かで埋めることは出来ません。それでも、その傷、痛みを正面から受け止め、未来を力強く行きて行こうとする、そういった人間の意志の向かう先にこそ、復興があるのではないでしょうか。私達はNPOみんつなという組織として支援に関わっていますが、実際に触れ合うのはひとりの人間と人間です。NPOみんつなの活動期限は2014年3月11日と定めておりますが、それ以降も、この土地に、出逢った人々に関わった人間のひとりとして、末永く寄り添っていけたら幸いです。「現地レポート」と題したこちらのページでは、2011年夏以降の現地の様子、それも中々知ることの出来ない地元の様子や、未来へ向けて頑張る地元の人々をご紹介出来たらと思います。

※ご紹介するイベント、組織、人物はNPOみんつなと直接関わりがあるわけではなく、メンバーの個人的関係によって取材、撮影させて頂いています。

 

桜ライン311

  「まさかこんな津波が押し寄せるとは」、と人々は口を揃えたように言います。地震の多い東北沿岸部でも、4階の高さまで到達する津波が来る危険を知っていた人は僅かでした。しかし、実は三陸沿岸の町々は、以前から何度も大津波に襲われたことがあり、陸前高田市も津波によって大被害を受けた歴史を持っているのです。1896年6月15日に発生した地震によって発生した津波では、死者2万人を越える大被害が発生しました。1933年3月3日分には釜石沖を震源とする地震が発生、大津波が市街地を襲い、死者約3000人という惨事となった事実があります。そして1960年5月22日には、チリ沖を震源とする地震が発生、岩手県沿岸にも津波が押し寄せ、約140名が命を落としました。これほど何度も津波被害を受けていながら、なぜ今回の津波を警戒することが出来なかったのでしょうか?実は、陸前高田市には過去の津波の恐ろしさを伝える石碑が残されています。その石碑は当時の津波の到達ライン上に建っており、その表面には「地震が来たら津波が来る」「この石碑より下に家を建てるな」などと言った文面が刻まれています。しかし、残念ながら時の流れはその石碑の存在を忘れさせ、今回の地震発生前にその石碑の存在を知っていた人は極僅かに過ぎなかったのです。かつて津波によって壊滅した市街地には、数年、数十年と時を経ていく内に、また新たな人々の住む家々が建てられていきました。「私達は悔しいんです」と、「桜ライン311」というプロジェクトの代表、橋詰琢見さん(35)は言います。「三陸沿岸は、何度も津波に襲われた経験を持ちながら、その歴史をきちんと伝えてこなかった。もしその歴史を知っていたならば、今回の津波でも被害を抑えられたかもしれない」。現在、「桜ライン311」では、陸前高田市内の津波到達ライン上に桜を植樹する活動を行なっています。

【オフィシャルHP】http://www.sakura-line311.org/

 

瓦Re:KEYHOLDER

  瓦礫――この言葉からあなたが連想するものは何でしょうか。あの日、数え切れないほどのものが一瞬にして瓦礫となりました。目の前の木材は、ただの木材ではありません。それらは人々の生活を包む家々だったものです。破壊と痛みの象徴、厄介な廃棄物、そんな瓦礫のネガティブなイメージを、逆に震災の記憶を風化させないために活用するプロジェクトが陸前高田で行われています。様々な瓦礫の中から、色とりどりの破片を回収し洗浄、それを加工してキーホルダーにしようという「瓦Re:KEY HOLDER」製作がその活動です。 街跡に積み上げられた瓦礫の山から見つけた素材(プラスチックのザルや雑貨など)を丁寧に洗浄し、適した大きさにカットしていきます。角を丁寧に削り、様々な色を組み合わせて「RIKU TAKA」(陸前高田の略称)印を押し、世界にひとつだけのキーホルダーが出来上がります。製作するのは、震災後職を失った地元のお母さん方や、福祉作業所で働く人々です。キーホルダー製作は記憶を風化させないためでもあり、また、地元の人々の雇用も生み出しています。製作に関わるお母さんたちにとって、ストレスを感じることも多い仮設住宅での生活の中で、一緒に集まり作業をするということ自体が、貴重な息抜き、交流の場ともなっているということでした。作業場は古い日本家屋で、部屋を覗かせてもらうと、笑いの絶えない中、次々と新しいキーホルダーが作られていく様子を見ることが出来ました。 「瓦Re:KEY HOLDER」製作を進める中田源(なかたはじめ)さん(32)は北海道の出身です。震災後、何度かボランティアに訪れていた被災地で、より中長期的な支援が出来ないかと考えていました。幼い頃、ベルリンの壁崩壊時にテレビで見たある光景がきっかけとなって今回のアイデアを思いついたといいます。「東西の壁が壊されて、その壁の欠片を土産屋が売っていたんですね。負の遺産が、人々の記憶に訴えかける大切な遺産になるという発想に衝撃を受けたんです」。製作されたキーホルダーは、全国各地で販売中です。

【オフィシャルHP】http://11shokunin.com/keyholder/

 

スマイル番屋「環」

  スマイル番屋「環」というプレハブ店舗で、震災の記憶を受け継いでいくためにも、活動を続けるひとりの女性がいました。船砥千幸さん(42)、幼い頃から漁業に携わってきた逞しい女性です。漁師の家に生まれたものの、父が体調を崩して以来、他の家の漁業の「助っ人」として働いてきました。春はホタテ、夏から冬にかけてはサンマ、また年明けにはホタテと、色々な現場を周り、漁師さんの手伝いをしてきました。女手ひとつで子どもたちを育て上げ、今では孫も含めて6人家族の生計を担っています。そんな船砥さんの職場も、その多くが津波によって流されてしまいました。3月11日、給料日目前にして全てが無くなり、しばらく無収入の日々が続きました。いくら仮設住宅へ入居出来たとはいえ、日々の生活にはお金が必要です。家族を支えるためにも、船砥さんはすぐに行動を起こしました。「浜のミサンガ 環」(はまのみさんが たまき)というプロジェクトがあります。浜の男性たちには、漁業施設の復旧、瓦礫撤去や工事の手伝いなどの仕事が少しずつ生まれてきているものの、女性たちの仕事は中々復旧していません。そんな中、浜の漁具を使ったミサンガを作り、売ることによって少しでも収入にしようというプロジェクトです。船砥さんはすぐに応募し、陸前高田でのリーダーとして、多くの主婦をまとめミサンガ作りを開始しました。他にも、船砥さんの行なっている未来へと続く大事な仕事があります。それが、この地域へのボランティアの受け入れ、コーディネートです。だいぶ数が減ったとはいえ、今でも少なくないボランティアが被災地を訪れます。しかし最近はマッチングもうまくいかず、人々との交流もないまま単純労働だけして帰っていくボランティアに、船砥さんは疑問をもっていました。「地元の人との交流がなければ、再び来てもらうことは出来ないんじゃないか。そこに温かい交流が生まれたら、きっと1年経っても、2年経っても、またこの地に足を運んでくれると思うんです」。船砥さんは、かねてから交流のあった漁師さんたちの作業手伝いとして、多くのボランティアを受け入れています。「これは単に被災地の支援というだけではないんです。一次産業の現場を体験することによって、普段口にする食べ物にしても、それを作る人の顔が見えるようになる。若い世代の少ない一次産業の魅力を、もっともっと知ってもらう体験として、震災からの復興を遂げた後も、ずっと続けていきたいと思います」。

【オフィシャルHP】 http://ameblo.jp/sanriku-hureai/

 

りくカフェ

生々しい津波の傷跡を抱えながら、陸前高田では多くの人が生活の再建を目指しています。震災から2年近く経過し、中には事業を再開した人や、新たな職に就く人々もいます。しかし、急激な生活環境の変化から、中々外に出られず、人々との交流の機会が減ったという話もよく聞くようになりました。そもそも人と会おうにも、街中の喫茶店なども全壊した陸前高田では、人々の集える場所も限られているのです。そんなコミュニティ内の交流の機会を失わないために、各仮設住宅団地や地域では「お茶会」を開催しようという動きも活発に見られました。ここ、陸前高田市鳴石(なるいし)地区に颯爽と姿を表した「りくカフェ」もまた、そんなカフェのひとつです。地域住民を中心とする「陸前高田まちのリビングプロジェクト」により今年の1月9日にオープンした「りくカフェ」は、地域の人が気軽に集まれる場所を作りたいとの思いから、都市設計や建築の専門家、企業らの協力を受けて作られました。カフェのアイデアが生まれたのは、震災直後のことでした。「りくカフェ」運営の中心メンバーである吉田和子(よしだかずこ)さん(58)は、震災被害を免れた自宅で、近所の被災者らに向けて、自らのネットワークを生かして集めた支援物資の配給や、ちょっとしたお茶会などを開催していました。大変な状況だからこそ心の落ち着く場所を作りたいという、その想いに共鳴した仲間が集まり、今の「りくカフェ」運営メンバーが生まれたのです。

【オフィシャルHP】http://blog.livedoor.jp/riku_cafe/

 

牡蠣漁

  震災後なにかとつけてお世話になっている牡蠣養殖業者の佐藤一男さん(46)に、職場の様子を見せて頂けることとなりました。震災から1年以上も経ち、ようやく浜も動き出しました。三陸の牡蠣は全国的にも有名です。いつもおいしいおいしいと頬張っていた牡蠣が、実際にはどのように育てられているのか、じっくり拝見してみました。 男たちが船で沖合の作業を行なっている間に、港の作業場ではお母さんたちが別な作業をしています。養殖の牡蠣は、まずホタテの貝殻で育てられ、その小粒な牡蠣が”種牡蠣”として養殖業者に出荷されます。その種牡蠣をそのまま海中に入れておけば勝手に大きくなるわけではなく、きちんと育てるには「間引き」が必要となります。ホタテ貝には数個の小さな牡蠣が付着しているのですが、このままではそれぞれが養分を奪い合い、大きく育ちません。なのでその中から大きめの、「良く育ちそうな牡蠣」だけを残し、中途半端な大きさの牡蠣は全部取ってしまうのです。この牡蠣の間引きという根気の要る作業は、震災前は電気工具などを使っていたのですが、作業場が完全に復旧していない今は、昔ながらの手作業で行っています。お母さんたちの手元を見ると、握られているのは専用の道具ではなく、マイナスドライバーや左官屋のコテなど、様々なものを好きに使っています。「使えたらなんでもいいのよ。自分流」というお母さんたちは、作業をしながら世間話に花を咲かせていました。 男たちは養殖イカダ作りに大忙しです(取材は2012年夏)。大きな丸太を何本も組み合わせ、巨大な「浮き」をつけたイカダを何百と作っていきます。イカダを沖まで運ぶ船に乗せてもらうと、潮風が心地よく頬を撫でました。こんなに美しく、穏やかな海が、時には人の命を無慈悲に奪うのだなと、傾きかけた夕日に照らされて揺れる水面を見ながらふと思いました。船からイカダに飛び移り、錨の結びつけてある紐と固定します。見ていると簡単な作業ですが、揺れる海面でひょいひょいとイカダの上で作業するのは並大抵のことではありません。 陸の作業所に戻り、間引きされて捨てられる種牡蠣を物欲しそうに見ていた僕に、「食べてみる?」とお母さん。器用にこじ開けられた貝の中には、クリーム色に光る小さな牡蠣が入っていました。その牡蠣を握り、波打ち際まで走りました。「採れたての牡蠣は海の潮で食べるのが最高においしいんだ」というある漁師さんの言葉が記憶にあったからです。さっと洗い、口に放り込む。潮に混ざり、牡蠣独特の風味豊かで濃厚な味が口に広がる。こんなにおいしい牡蠣が、これからもっともっとおいしくなるなんて。三陸の湾は栄養豊かなことで知られています。肥沃な森林で生成された栄養分が、雨に流れ、川を下り、湾内に注いでいるのです。空と、大地と、海の栄養をふんだんに含んだ三陸の牡蠣は、おいしく実るまで海の底ですくすくと育っています。(2013年1月現在、生食以外の牡蠣は出荷されています)

 

 
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